第三次対仏大同盟戦争(対オーストリア戦役)
1805年8月〜1805年12月26日
<アミアン条約の破棄とイギリスとの戦争>
フランス共和国とイギリス王国は1802年のアミアン条約によって一時休戦をするが、イギリス側が条約に明記された軍のマルタからの撤退をなかなか実行しないためにアミアン条約が破棄された。そして、ナポレオンはイギリスと直接干戈を交えるためにブローニュに十五万の大軍を集めた。この動きを見たイギリス側はオーストリア、ロシアなどを誘って第三次対仏大同盟を結成。ドーバーの守りを固め、海軍力を高めるなどこれに対抗した。
フランス軍がイギリスに侵攻するためには両国の間に広がるドーバー海峡の制海権が必要絶対条件であった。ナポレオンは地中海に停泊しているフランス艦隊に出撃をさせ、上陸作戦が完了する数日間ドーバー海峡の制海権を得る事を命じた。ピエール・ヴィルヌーブ提督率いるフランス艦隊は4月上旬にカディスでスペイン艦隊と合流して、西インド諸島に出発。ネルソン提督率いるイギリス艦隊の陽動を行った。数度の海戦を経て、6月にはフランス=スペイン艦隊はイギリス艦隊の追跡を振り切ることに成功した。しかし7月中旬、北フランスのブレスト港に向かったフランス=スペイン艦隊はイギリス艦隊の攻撃を恐れて8月未明にカディス港に逃げこみ、イギリス艦隊は好機とばかり港の封鎖を実行してフランス=スペイン艦隊の動きを断つことに成功した。
ナポレオンはこの海軍の失態に怒るとともに、ロシア=オーストリア連合軍がイギリスにけしかけられてフランスとの戦争を準備していると聞き、8月25日にブローニュのイギリス方軍をドイツ方面に進めた。
トラファルガル海戦 1805年 10月21日

| フランス艦隊 | イギリス艦隊 | ||
| 艦名 | 砲数 | 艦名 | 砲数 |
| ★ビューサントル | 80 | ★ヴィクトリー | 104 |
| アンドンタブル | 80 | ロイアル・ソヴリン | 100 |
| ネプテューン | 80 | ブリタニア | 100 |
| フォルミダーブル | 80 | テレメア | 98 |
| フギュー | 74 | プリンス | 98 |
| エロ | 74 | ネプチェーン | 98 |
| アルジェシラ | 74 | ドレッドノート | 98 |
| プリュートン | 74 | サンダラー | 98 |
| ベリク | 74 | ターナント | 80 |
| エーグル | 74 | べレイル | 74 |
| アントレピード | 74 | リベンジ | 74 |
| ルドゥターブル | 74 | マーズ | 74 |
| モンブラン | 74 | パティエーテ | 74 |
| シピオン | 74 | デファイアンス | 74 |
| デュギュエ・トルアン | 74 | コロッサス | 74 |
| アシール | 74 | リヴァイアサン | 74 |
| アルゴノート | 74 | アキル | 74 |
| スペイン艦隊 | 砲数 | ベレロフォン | 74 |
| サンティシマ・トリニダ | 130 | ミノタウル | 74 |
| サンタ・アナ | 112 | オリオン | 74 |
| プリンシペ・デ・アストゥーリアス | 112 | スウィフトシュア | 74 |
| ラーヨ | 100 | アジャックス | 74 |
| ネプトゥーノ | 80 | コンケラー | 74 |
| アルゴノート | 80 | ディフェンス | 74 |
| モンタニュ | 74 | ポリフェマス | 64 |
| サン・フスト | 74 | アフリカ | 64 |
| サン・イルデフォンゾ | 74 | アガメムノン | 64 |
| サン・ファン・デ・ネポムセーノ | 74 | ||
| モナルカ | 74 | ||
| サン・フランシスコ・デ・アシス | 74 | ||
| サン・アグスティン | 74 | ||
| サン・レアンドロ | 64 | ||
あくる9月15日ナポレオンはヴィルヌーヴを更迭して、新たな艦隊司令官にロシリを任命する。しかし、ヴィルヌーヴは10月18日にフランス=スペイン艦隊の出撃を命じた。(このヴィルヌーヴの命令無視は自分が降格ではなくて完全な罷免であったので傷ついたためといわれる。またナポレオンは海戦を陸戦と同じように考えていたためヴィルヌーヴの作戦方針をよく理解していなかった。) 10月21日にフランス・スペイン連合艦隊33隻はカディスを出撃した。そしてフランス=スペイン艦隊の出港を知ったネルソンは追跡を開始。イギリス艦隊の接近にヴィルヌーヴは再びカディスに逃げ込もうとするが、イギリス艦隊に追い付かれてしまい、その日のうちに戦闘を余儀なくされた。
フランス・スペイン艦隊は33隻を擁しており、ビューサントル号やルドゥターブル号などフランスが誇る戦列艦や130門の艦載砲を持つスペインの要塞船サンティシマ・トリニダ号など最高の船と装備を持っていた。しかしフランス艦に乗り込んでいる士官は民間船の船員出身者が多くを占めており水夫も訓練が行き届いておらず、スペイン艦にいたってはならず者の集まりの様な体をしていた。一方でイギリス艦隊は27隻と数では劣っていたが、司令官ネルソン提督をはじめ、海戦に慣れた歴戦の士官や水夫が揃っていた。
イギリス艦隊を目視したフランス=スペイン艦隊は隊列が乱れ、巨大な縦隊は次第にばらばらとなっていった。それにスペイン艦隊が逃亡しないようにフランス艦とフランス艦の間にスペイン艦を配置していたため、フランス艦隊は有効な機動がとれないでいた。それに対してイギリスは整然と、ネルソン提督が乗艦するヴィクトリー号を先頭とする12隻とコリンズウッド提督が乗り込むロイヤル・ソヴリン号を先頭とする14隻の艦隊に分かれてフランス=スペイン艦隊に接近した。
11時にコリンズウッド艦隊がフランス=スペイン艦隊と接触して戦闘が開始される。続けてネルソン艦隊もフランス=スペイン艦隊の戦列に飛び込んで戦闘が行われた。フランス・スペイン艦隊はイギリス艦隊によって縦隊が分断され、組織的抵抗が不可能な状態に陥っていった。先行していたフランス艦隊の前衛をヴィルヌーヴは呼び戻そうとするが、風が弱くて反転できず、フランス艦隊は数も劣勢な状態での戦闘を余儀なくされた。イギリス艦隊に接近されたところでは壮絶な死闘が繰り広げられ、イギリス艦は艦載砲の一斉射撃を次々とフランス=スペイン艦隊に浴びせていった。
ネルソンのヴィクトリー号はヴィルヌーヴの乗り込むビューサントル号に接近して砲撃を浴びせた。しかし、フランス戦艦ルドゥターブル号がヴィクトリー号の妨害に入り、ルドゥターブル号の狙撃兵がネルソンを狙撃して負傷させた。戦闘は5時間以上に及び、4時半にヴィルヌーヴの降伏によって戦闘は終わりを告げた。
フランス艦隊は三千四百人が戦死、千二百人が負傷した。戦艦の損失は18隻の艦のうち13隻(捕獲6隻、撃沈1、破壊6)にのぼり、フランス艦隊は事実上壊滅した。スペイン艦隊は千人が戦死、二千五百人が負傷し、戦艦も15隻のうち9隻を失った。両軍合わせて七千人がイギリス艦隊の捕虜となった。イギリス艦隊は損失はゼロであったが、司令官ネルソンを含む四百五十人が戦死、千二百人が負傷した。(ヴィルヌーヴは捕虜となり、その後釈放された。しかし、敗戦を苦にしてフランスに帰還後に自殺して果てた)
<オーストリア遠征>
フランス艦隊が全滅している間、ナポレオンはドイツでオーストリア軍を相手に大勝利をしていた。
| 軍団 | 司令官 | 編成 | 兵数 |
| 第1軍団 | ベルナドット元帥 | 歩兵師団*2 騎兵師団*1 | 1万8000 |
| 第2軍団 | マルモン将軍 | 歩兵師団*3 騎兵師団*1 | 2万1000 |
| 第3軍団 | ダヴー元帥 | 歩兵師団*3 騎兵師団*1 | 2万7000 |
| 第4軍団 | スルト元帥 | 歩兵師団*4 騎兵師団*1 | 4万1000 |
| 第5軍団 | ランヌ元帥 | 歩兵師団*2 騎兵師団*1 | 1万8000 |
| 第6軍団 | ネイ元帥 | 歩兵師団*3 騎兵師団*1 | 2万4000 |
| 第7軍団 | オージュロー元帥 | 予備隊 | 1万4000 |
| 近衛軍団 | ベシェール元帥 | 6000 | |
| 騎兵軍団 | ミュラー元帥 | 騎兵師団*7 | 2万2000 |
そのほかにイタリアにマッセナ元帥が5万を率いていた。ドイツ方面に投入される総兵力はおよそ25万。
9月10日、カール・マック・ライベリッヒ元帥率いるオーストリア軍七万二千がバイエルンに侵入。ミュンヘンを占領し、オーストリア軍はバイエルンを制圧した。マックは本営をバイエルンの首都ミュンヘンから要塞都市ウルムに移してフランス軍を迎撃する構えを見せた。ナポレオン率いるフランス軍は十五万の軍勢を7個軍団に分けて進軍させ、9月25日に前衛部隊がドイツに侵攻した。ナポレオンも翌日ドイツ入りをする。
オーストリア=ロシア連合軍はドイツのマック元帥の軍団以外は各方面に散らばっていた。オーストリア帝国はマック元帥の七万二千の軍団をドイツ方面に展開させていたが、カール大公の十万の大軍は北イタリアでマッセナ元帥の五万の軍と対峙しており、ヨハン大公の二万二千の軍団はチロル地方インスブルクに待機中であった。そしてロシアのクトゥーゾフ将軍の三万六千の軍団とブックスヘウデン将軍の四万の軍団が未だにバイエルン入りさえしていなかった。マック元帥がウルム付近で孤立していると知ったナポレオンは正面攻撃で駆逐するのではなく包囲殲滅しようと考えた。
ユンキンゲンの戦い 1805年10月11日
| 戦勝国 | 司令官 | 兵力 | 損害(死傷者+捕虜) |
| フランス | デュポン将軍 | 7500 | 1500 |
| 敗戦国 | |||
| オーストリア | マック元帥 | 2万5000 | 1500+3000 |
エルヒンゲンの戦い 1805年10月14日
| 戦勝国 | 司令官 | 兵力 | 損害 |
| フランス | ネイ元帥 | 1万5000 | 1500 |
| 敗戦国 | |||
| オーストリア | リーシュ将軍 | 1万5000 | 4000 |
ウルムの戦い 1805年10月17日
| 戦勝国 | 司令官 | 兵力 | 損害 |
| フランス | ナポレオン1世 | 8万 | ? |
| 敗戦国 | |||
| オーストリア | マック元帥 | 3万3000 | 2300 |
10月6日、バイエルン=フランス国境の”黒い森”といわれるシュヴァルツバルト森林地帯にミュラー騎兵軍団に展開させオーストリア軍の注意をひきつけた。オーストリア軍総司令官のマック元帥はこれを見てフランス軍はシュヴァルツバルトから侵攻してくるとすっかり思いこみ防備を固めるが、その隙にネイ軍団やランヌ軍団、ダヴー軍団、マルモン軍団などフランスの主力軍団が強行軍で駆けつけ、ウルムのオーストリア軍の背後に機動してアウグスブルクなど主だった敵の拠点を攻撃してオーストリア軍の退路を断った。マック将軍は完全包囲されウルムに籠城を余儀なくされた。
10月14日、マック元帥はなんとか血路を開こうとエルヒンゲンでネイ軍団と激突するが、ネイ元帥の果敢な攻撃によって阻止されてしまい、逆にウルムの城壁にまで攻め込まれてしまった。ナポレオンはウルムに激しい砲撃を加え、戦意を喪失したマック元帥はロシア軍の到着を待たずに降服してしまった。この戦いでオーストリア軍は一万人が死傷し、三万人が捕虜となった。フランス軍の損害は七千人ほどであり、ナポレオンはこの戦いに関して「歩くだけで勝った」と自慢げに話したといわれている。
休む間もなくナポレオンはウィーンへ進撃を開始。ロシアのクトゥーゾフ将軍はミュンヘンまで接近していたが、マック元帥の敗北を知りさっさと退却してしまった。
10月30日、北イタリアでマッセナ将軍がカール大公に戦いを挑むが、カールは兵力の温存を図り、決戦を回避し、ヨハン大公とともにイタリアから撤退を始めた。11月1日、ナポレオンはオーストリア本国へ侵入をし、11月5日にネイ元帥の軍団がシャルニッツで北上してきたヨハン大公の軍を破った。カール大公軍もマッセナ軍追いつかれ、ウィーンへの進撃をはばまれてしまい、11月14日にナポレオンは首尾よくウィーンへ入城を果たした。
ロシア軍は戦わずしてウィーンからチェコへ退却し、神聖ローマ皇帝フランツ2世もチェコのオルミュッツに逃れた。オルミュッツに集結した軍団は、イタリアから北上してくるカール大公の軍を待つことになった。フェルディナンド大公率いるオーストリア軍一万八千もプラハに展開していた。オーストリア軍には集結させると十万近い軍団がまだ健在であった。ウィーンにいるナポレオンを北と南から挟撃しようとした。
アウステルリッツの戦い 1805年 12月2日
| 戦勝国 | 司令官 | 兵力 | 損害(死傷+捕虜) |
| フランス | ナポレオン1世 | 7万3000 | 1万 |
| 敗戦国 | |||
| オーストリア | フランツ1世 | 8万7000 | 1万6000+2万 |
| ロシア | アレクサンドル1世 |

この連合軍の動きに対してナポレオンは先制攻撃を加える。ボヘミアに軍団を進軍させてオーストリア=ロシア連合軍とで対峙をした。ナポレオンの手元には六万五千の手勢しか残っていなかった。
11月21日、チェコに侵入したフランス軍はブリューンに本拠地を置いて、ブリューンの西に位置するブライツェン高地とアウステルリッツに軍を配置した。ブライツェン高地は主戦場の中央にある小高い丘であり、戦場全体が見渡せる戦略の要衝であった。
11月27日、オルミュッツから八万七千のオーストリア=ロシア連合軍がアウステルリッツの付近に南下を始めた。フランス軍の主力部隊を率いていたスルト元帥はアウステルリッツでの抗戦を主張するが、ナポレオンからの撤退命令を受けてしぶしぶブリューンへと引き返した。
11月29日にナポレオンは休戦交渉を開始した。これは自分が弱気になっていると連合軍に思わせる芝居であった。当然、連合軍総司令官のロシア皇帝アレクサンドルは休戦に応じず、ナポレオンは念を押す為に何度も休戦交渉のためにサヴァリ将軍を派遣した。
このナポレオンからの講和の申し入れに若いアレクサンドルはすっかり気を良くして、カール大公の合流を待たずにフランスとの開戦を決めた。クトゥーゾフ将軍は開戦に反対するが、「ナポレオンは数に勝っているわが軍を恐れている」と信じて疑わないロシア皇帝は聞き入れなかった。連合軍は決戦を急ぐというナポレオンの思惑にすっかり乗ってしまい、戦いの火ぶたが切られた。
12月1日、ロシア軍はブライツェン高地を攻撃してこれを奪った。アレクサンドル1世はフランス軍の脆弱さに調子にのり、ますます油断をした。
12月1日時点での両軍の配置は次の通り。

この地図は『ラスール世界歴史地図(1991年)』より。
<アウステルリッツの戦い>
連合軍の右翼(北側)がバグラチオン将軍の一万三千。中央をクトゥーゾフ将軍一万五千。左翼(南側)をブックスヘウデン将軍の四万が受け持っていた。
フランス軍はダヴー元帥の軍団が加わっており六万五千から七万三千へと増強されえおり、兵力差を縮めていた。右翼(南側)をダヴー元帥が八千をもって待機。中央にはスルト元帥の主力部隊とベルナドットの軍団、ミュラー騎兵軍団、そしてナポレオン直接指揮の帝国親衛隊が配置された。そして左翼(北側)にはランヌ元帥の部隊がバグラチオン軍を迎撃する構えであった。
ナポレオンは、連合軍は丘を下りて数の少ないダヴー軍団を攻撃してくると予測しており、そのすきに手薄になった中央を突破する作戦を立てた。
一方、オーストリア=ロシア連合軍は作戦方針で大きく揺れていた。クトゥーゾフ将軍は中央高地の維持を主張。オーストリアのワルローテル将軍は弱体化しているフランス軍右翼ダヴー軍団を突破する作戦を主張した。そしてアレクサンドル1世がワイローテル将軍の意見を支持したために、連合軍はまんまとナポレオンの作戦の乗せられる形となってしまった。
12月2日早朝。連合軍が攻撃を開始した。ブックスヘウデン軍四万がつぎつぎと高地を下りてフランス軍右翼に殺到し、9時頃に連合軍のほとんどの部隊がブライツェン高地を下り、南のダヴー軍と交戦していた。ダヴー軍は頑強に抵抗していたが、圧倒的な兵力差の前に後退しており、防衛戦であったゴルトバッハ川を突破されてしまった。
高地が手薄なことを確認したナポレオンは、中央を守っていたスルト軍団にブライツェン高地の奪取を命じ、スルト軍団は一気に山を駆け上って山頂のクトゥーゾフ将軍の軍団に攻撃を開始した。クトゥーゾフは近衛軍団も投入してブライツェン高地の死守に努めたが、兵力に劣るクトゥーゾフはじりじりと押されていった。クトゥーゾフはブックスヘウデン将軍に援軍を要請したが、ブックスヘウデンは右翼の突破にこだわったためクトゥーゾフ将軍の要請を無視した。
ベルナドット軍団やミュラー騎兵軍団もスルトの援護としてブライツェン高地の戦闘に投入され、さらにナポレオンは帝国親衛隊も戦闘に参戦させた。そして午後2時ごろ、クトゥーゾフ軍はついに敗れ、敗走を始めた。中央突破を果たしたスルト元帥は返す刀で南のダヴー軍団を攻撃していたブックスヘウデン軍に背後から襲いかかった。ブックスヘウデン軍は挟み撃ちにあい大混乱に陥り、南の凍結したザッチャン湖に向かって敗走を始めた。ナポレオンは凍った湖に砲撃を浴びせ、連合軍兵士は冷たい湖の中に次々と沈んでいった。
午後4時ごろまでに連合軍の組織的抵抗は完全に終わり、フランツ帝はその日のうちにナポレオンに降伏。アレクサンドル帝はロシアへ逃げ帰った。連合軍は一万六千の死傷者と、三万の捕虜を出して壊滅した。フランス軍は千三百の戦死者と七千の負傷者を出したが、フランスの圧倒的勝利で終わった。
プレスブルク条約
1805年12月16日、フランスとオーストリアはプレスブルク条約を締結。オーストリアはこの条約でヴェネチア、ダルマチア、チロル・トレント・アウグスブルクなどの領土を失い、賠償金5000万フローリンを課せられることとなった。
1806年1月、対仏戦争を指導していたイギリスのピット首相がアウステルリッツの敗戦を聞いて憤死。しかし、イギリスは戦争続行を表明した。
※文豪ゲーテは神聖ローマ帝国の滅亡のことを手記に「帝国が解散した」と記しただけで淡々としていたという。
※神聖ローマ帝国の滅亡とライン同盟の結成によって300以上も存在していたドイツの諸侯の国は整理された。