第一次イタリア遠征
1796年4月~1797年10月18日
軍事の天才と言うナポレオンの名声を高めたのはこの遠征からである。イタリア戦線では四万のフランス軍と六万のオーストリア軍が睨み合っていた。オーストリア軍はサルディニ王国と同盟を結んでおり、北イタリアの大部分を支配下におさめていた。一方でフランス=イタリア方面軍はニースを拠点としていたが、食糧・武器・装備に欠けており、「乞食部隊」と言われるほど士気が低かった。
モンテノッテの戦い 1796年4月12日
| 戦勝国 | 司令官 | 兵力 | 損害 |
| フランス | ボナパルト将軍 | 1万4000 | 800 |
| 敗戦国 | |||
| オーストリア | d'Argenteau 将軍 | 9000 | 2500 |

| フランス軍 | オーストリア軍 | ||
| ラアルプ将軍 | 第1軽歩兵隊 2個大隊 800名 第70戦列歩兵隊 3個大隊 1200名 第14歩兵隊 3個大隊 1200名 砲 6門 |
d'Argenteau将軍 | 第19連隊 1個大隊 600名 第32連隊 1個大隊 500名 第50連隊 1個大隊 500名 第55連隊 2個大隊 1000名 第16連隊 3個大隊 1500名 第24連隊 1個大隊 500名 第25連隊 3個大隊 1500名 砲18門 |
| マッセナ将軍 | 第8軽歩兵隊 3個大隊 1200名 第46戦列歩兵 3個隊隊 1200名 砲 6門 |
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| ランポン准将 | 第21歩兵隊 2個大隊 800名 第99歩兵隊 2個大隊 800名 第100歩兵隊 3個大隊 400名 砲 6門 |
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ナポレオンは兵の士気を上げるとイタリアへの進軍を始める。まず攻撃目標となったのはサルディニア王国軍であった。ナポレオンによるイタリア平定は4月12日にモンテノッテで始まった。モンテノッテでフランス軍はオーストリア軍前衛を攻撃して撃破、緒戦を勝利で飾った。そしてデゴやミレシモなどオーストリア軍の拠点をさらに攻撃・占領してサルディニア軍を孤立させることに成功する。
ミレシモの戦い 1796年4月13~14日
| 戦勝国 | 司令官 | 兵力 | 損害 |
| フランス | ボナパルト将軍 | 9000 | 80 |
| 敗戦国 | |||
| オーストリア | プロベラ将軍 | 950 | 900 |

デゴの戦い 第1会戦 1796年4月14日 第2会戦 4月15日
モントヴィの戦い 1796年4月28日
| 戦勝国 | 司令官 | 兵力 | 損害 |
| フランス | ボナパルト将軍 | 1万7000 | 600 |
| 敗戦国 | |||
| サルディニア | コッリ将軍 | 1万3000 | 1600 |

サルディニア軍司令官のコッリは単独でフランス軍に挑戦するが、4月21日にモントヴィで大敗を喫した。ナポレオンはサルディニア王国の首都であるトリノに迫り、28日に慌てたサルディニア宮廷は休戦を求めた。ナポレオンはわずか1カ月で一つの国を降参させ、オーストリア軍の撃破に専念することになった。
オーストリア軍司令官ボーリューはポー河に兵力を配備して防戦の構えを見せたが、ナポレオンは対岸を一気に東に進軍して、オーストリア軍の背後のピアツェンツィアで全軍を渡河させた。これに驚いたボーリューは兵力の温存を考え、アッダ河の防衛戦まで撤退する。
ロディの戦い 1796年5月12日
| 戦勝国 | 司令官 | 兵力 | 損害 |
| フランス | ボナパルト将軍 | 1万7000 | 500 |
| 敗戦国 | |||
| オーストリア | ゼボッテンドルフ将軍 | 9500 | 2300 |

| フランス軍 | オーストリア軍 | ||
| ダルマージュ将軍 | 混成擲弾兵部隊 4個大隊 2400名 混成選抜歩兵部隊 2個大隊 1200名 第14歩兵隊 3個大隊 1200名 砲 2門 |
ゼボッテンドルフ将軍 | 第16連隊 1個大隊 700名 第19連隊 1個大隊 400名 第39連隊 1個大隊 600名 第43連隊 1個大隊 700名 第44連隊 1個大隊 300名 国境警備兵 3個大隊 2700名 第23連隊 1個大隊 500名 第27連隊 2個大隊 1200名 第19連隊 1個大隊 400名 歩兵4個大隊 2000名 軽騎兵 10個大隊 1500名 猟騎兵 8個大隊 1160名 槍騎兵 2個大隊 320名 砲10門 |
| Kilmaine将軍 | 第1軽騎兵連隊 3個大隊 360名 | ||
| ボーモント将軍 | 第10猟騎兵連隊 3個大隊 360名 第24猟騎兵連隊 2個大隊 280名 第5竜騎兵連隊 2個大隊 160名 第20竜騎兵連隊 3個大隊 360名 |
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| マッセナ将軍 | 第17軽歩兵部隊 3個大隊 1200名 第14軽歩兵部隊 3個大隊 1200名 第32軽歩兵部隊 3個大隊 1200名 第46軽歩兵部隊 3個大隊 1200名 第99軽歩兵部隊 3個大隊 1200名 第51軽歩兵部隊 2個大隊 800名 第75軽歩兵部隊 3個大隊 1200名 砲 12門 |
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ナポレオンはこれを追撃するが、5月10日に要塞都市ロディでオーストリア軍の激しい抵抗を受けた。ロディはアッダ河を渡河する唯一の地点であり、長さ180メートルの木造の橋が架けられているだけであった。
オーストリア軍のゼボッテンドルフ将軍は対岸に大砲と小銃兵を配備して防戦の構えを見せた。ナポレオンは歩兵に攻撃縦隊を組ませ橋の上を突撃させるが、オーストリア軍の小銃弾幕の前に撃退されてしまった。なかなか橋を突破できないことに業を煮やしたナポレオンは、旗手から軍旗を取り上げ自ら先頭に立って突撃をした。この司令官の行為に他の幕僚たちや将校も慌ててついてゆき、フランス軍はロディを突破することに成功した。
そして5月15日にミラノを占領し、フランス軍はミラノ市民から大歓迎を受けた。ナポレオンはこれに軍税を持って答えた。
フランス軍の過酷な軍税に対してミラノ市は反乱をおこすが、フランス軍の激しい弾圧の前に鎮圧された。そして5月30日にミラノの反乱に呼応して、ボーリュウ将軍が一万九千を持ってボルゲットに進出するが、ナポレオンは二万八千を持ってこれを粉砕し、ボーリューはチロルに向けて敗走した。そしてマントヴァ要塞に一万のオーストリア軍が逃げ込み、ナポレオンはこれを包囲した。
マントヴァ攻囲戦

マントヴァ(マンチュア)市 地図
カスティリオーネの戦い 第1会戦1796年8月3日 第2会戦 8月5日
| 第2会戦 | |||
| 戦勝国 | 司令官 | 兵力 | 損害 |
| フランス | ボナパルト将軍 | 3万 | 1500 |
| 敗戦国 | |||
| オーストリア | ウェルムザー将軍 | 2万5000 | 3500 |

7月になると、マントヴァ要塞のオーストリア軍救出のためにドイツ戦線からヴェルムザー将軍が二万四千の大軍を持ってイタリアに入った。そしてボーリュー軍の残党と合流して四万七千の軍勢の兵力となり、ガルダ湖を東西に分かれ南下してフランス軍の包囲を始めた。
ナポレオンはマントヴァの包囲のために兵力をとられ、三万四千の野戦兵しかもっていなかったが、破竹の勢いのオーストリア軍に対し攻撃を開始する。
8月カスティリオーネでオージュロー将軍の師団一万が二万四千のヴェルムザー軍の猛攻を受けた。しかし、その間に8月3日にロナトでマッセナ将軍がガルダ湖西岸を進軍していたガスタノビッチ将軍の軍勢を撃破することに成功した。オージュロー軍はカスティリオーネを奪われるが、マッセナ将軍の軍勢二万が援軍に駆けつけ、8月5日にカスティリオーネで再び両軍は激突した。
ナポレオンは緒戦兵力的に不利であったが、事前にマントヴァ要塞の包囲を解かせており、セリュリエ師団一万名が戦場に向かっていた。やがてセリュリエ師団がカスティリオーネに到着すると、オーストリア軍は総崩れとなり敗走を開始した。
カスティリオーネでウェルムザー将軍を撃破してもナポレオンは攻撃の手を休めなかった。ウェルムザー将軍はマントヴァを奪還しようと再度南下を始めるが、ナポレオンに激しい追撃を加えられ、9月4日にロベレートでオーストリア軍の殿軍を務めていたダビトヴィッチ将軍が敗れ、9月8日にバッサーノでウェルムザー将軍自身が大敗を喫した。ヴェルムザーは残った将兵とともにマントヴァに退却。守備軍と合流して反撃を試みるが、逆に要塞内に追い込まれてしまった。
アルコレの戦い 1796年11月15~17日
| 戦勝国 | 司令官 | 兵力 | 損害 |
| フランス | ボナパルト将軍 | 2万0000 | 4600 |
| 敗戦国 | |||
| オーストリア | ダルヴィンチ将軍 | 2万4000 | 6000 |

オーストリアはドイツ戦線の好転もあり、北イタリアへの増援を決定する。
11月にダルビンチ将軍のオーストリア軍六万が南下を始めた。ダルビンチは自ら三万を持ってブレンダ河を渡河し、ダビトヴィッチ将軍に二万を預け、ガルダ湖東岸を南下させた。ナポレオンはダビトヴィッチ軍の防御に八千を割き、マントヴァ包囲に九千の兵を配備。自ら二万の主力を持ってダルビンチ軍の迎撃に出るが、11月6日にバッサーノで、12日にカルディエロで相次いで敗れた。ナポレオンは軍をまとめてヴェローナに退却。敗戦の空気が出る中でナポレオンは一計を案じた。
ナポレオンはマントヴァの包囲軍から三千の兵を抽出してヴェローナを防衛させ、オーストリア軍を牽制させた。ナポレオン主力軍二万は14日にヴェローナを南下して、15日に北へ移動してアルコレに進出した。オーストリア軍の側面に出たフランス軍は攻撃を開始し、ダルビンチは直ぐに反撃を開始して激戦となった。オーストリア軍は二万四千を擁しており、兵力に劣るフランス軍は終始押され気味となった。ナポレオン兵の士気を上げようと、ロディのようにアルコレ橋でも先頭に立って突撃するが、橋から落ちて軽傷を負った。アルコレの戦闘は3日に及んだが、フランス軍の執拗な攻撃の前にオーストリア軍も疲労困憊していた。
ナポレオンは竜騎兵ラッパ手25名に命じて、オーストリア軍の背後でラッパをけたたましく鳴らした。オーストリア軍はフランス軍の奇襲と勘違いして総崩れとなり、ダルビンチ将軍の必死の呼びかけにもかかわらず全軍が敗走した。
| 戦勝国 | 司令官 | 兵力 | 損害 |
| フランス | ボナパルト将軍 | 2万2000 | 5000 |
| 敗戦国 | |||
| オーストリア | ダルヴィンチ将軍 | 2万8000 | 1万4000 |

翌1797年1月、軍を立て直したダルビンチ将軍が再度南下を始めた。オーストリア軍は六万の兵力を結集させ、全軍を三個に分けてマントヴァに進軍させた。
主力軍 ダルビンチ軍 五万
救援軍 バヤリヒ軍 五千
救援軍 プロベラ軍 九千
ダルビンチ将軍は全軍のうち二万八千を率いてガルダ湖東岸を南下。バヤリヒ将軍はヴェローナを経由してマントヴァに向かい、プロベラ将軍ははるか南を迂回し、レグナゴを経由してマントヴァに迫った。ナポレオンは敵がどこから進出してくるか見当がついておらず、全軍を分散させていたが、リヴォリを守備していたジュベール将軍から敵主力と接触したという知らせを受け、全軍をリヴォリに集結させた。
1月14日早朝、ダルビンチ軍は全軍を六個軍団に分け攻撃を開始した。①リプタイ将軍・②キブリス将軍・③オツカイ将軍の三部隊がリヴォリの丘を占領しているジュベール軍一万に攻撃を加え、④ガスタノビッチ将軍がフランス軍の右翼にあるオステリア村に進軍。ガスタノビッチ軍の攻撃を⑤ブガソビッチ将軍が火砲で支援した。そして⑥リシュニャン将軍がリヴォリのはるか南を機動しており、フランス軍の背後から攻撃を加えようとしていた。
早朝4時、ジュベール軍がオーストリア軍前衛を攻撃。サン・マルコ村を占領した。5時にマッセナ師団が到着してフランス軍は増強された。そして9時にリプタイ・キブリス・オツカイのオーストリアの三軍団が一斉に攻撃を開始した。続いて11時にガスタノビッチ軍が攻撃を開始した。しかし、ジュベール軍の抵抗が激しく、13時にオツカイ軍とガスタノビッチ軍が敗走した。
しかし、残ったリプタイ・キブリス軍は、リシュニャン軍がフランス軍が背後に起動すると同時に総攻撃を加えたが、一時間後にはその攻撃も失敗に終わった。さらにリシュニャン軍が北上してきたフランスのレイ師団に攻撃を受けて逆包囲されてしまった。それと同時にナポレオンは反撃に出て総攻撃を開始。オーストリア軍は全戦線で敗れて敗走を開始した。ミュラー率いる騎兵軍はすかさず追撃を加え、敗走するオーストリア軍を撃破。フランス軍の中で孤立したリシュニャン軍は降伏して、リヴォリの戦いは終わりを告げた。オーストリア軍は全軍の半数を失い、北へと敗走した。一方フランス軍の損害は三千人であった。
翌日、すぐにナポレオンはマントヴァに肉薄するプロベラ軍の包囲にかかった。まずマッセナ師団がプロベラ軍と戦闘を開始した。要塞内のオーストリア軍も打って出るが、セリュリエ師団に阻止されてしまった。さらにマッセナ軍にオージュロー軍団が加わり、プロベラ軍は完全に包囲され降伏した。
2月2日にマントヴァ要塞のヴェルムザー将軍は降伏。要塞内の二万八千のオーストリア軍が捕虜となった。

タリアメント河の戦い 1797年3月16日
そして3月にカール大公がドイツからイタリアに派遣されナポレオンと戦った。ナポレオンはベルナドット軍の援軍を得て増強され、カール軍の守備するタリアメント河を突破して、オーストリア本国へとなだれ込んだ。
慌てたオーストリア政府は1797年4月18日にレオーベンでフランス軍と停戦した。
その後も外交交渉が進められ、10月17日にカンポ・フォルミオ条約によって戦争は終わりを告げた。