ナポレオン戦争 紳士録
他国将軍 |
イギリス王国 ハノーヴァー朝
ローランド・ヒル Rowland Hill (1772〜1842)
1790年に軍隊にはいる。ツーロン包囲戦やエジプト遠征でフランス軍と戦う。1805年に少将となり、1808年にフランス軍が占領するポルトガルへと派遣された。ヴィメイロで戦う。1809年までムーア将軍の指揮下で旅団を指揮して半島戦争を戦った。その後ウェリントンが着任すると、師団を指揮してタラヴェーナ、ブサーコ、サラマンカの戦闘に参加。ブルゴスの包囲戦では寡兵のフランス軍の前に後退するも、無事ウェリントンの主力と合流した。1813年にヴィトリアの戦いに参加。その後はフランス本土に侵攻した。1815年に再びウェリントンの指揮下でワーテルローの戦いに第2軍団を率いて参加。戦闘の終盤でナポレオンの老親衛隊と戦い、これを壊走させた。
※兵士たちから"ヒルお父さん"という愛称で親しまれていた。
ジョン・ムーア John Moore (1761〜1809)
スコットランドのグラスゴー出身。1776年に軍隊にはいり、アメリカ独立戦争に従軍した。1783年に帰国し、翌年からスコットランドのラナークの議員を務めた。フランス革命がはじまると、1791年にコルシカ遠征に従軍する。1798年に少将となり、アイルランド反乱鎮圧に加わる。1799年にオランダ上陸作戦に参加。退却後はエジプトに派遣され、フランス軍と戦った。1803年に帰国してからは、自分の配下の旅団において軍制改革を行って、兵士の質の向上を図った。ナポレオンが皇帝になり、イギリス侵略を計画すると、ドーバー海峡の防衛を命じられ、海岸に円形砲台を多数建設し、民兵隊などを組織した。それらの功績で1804年にナイトの位を授かった。1808年に半島戦争がはじまると、先にスペインで戦っていたウェリントンの後任として、イギリス軍の指揮を執りフランス軍を苦しめた。しかし、ナポレオン自らスペインに親征してくると、猛攻を受けてスペイン北西部の町コルーナにまで退却する。コルーナからの撤退戦中にスルト元帥の軍団の猛攻を受け戦死した。
ホレーシオ・ネルソン Horatio Nelson (1758〜1805)
イギリスのノーフォーク生まれ。1771年に海軍に入り、レゾナブル号に士官候補生として乗り込んだ。1773〜76年にかけて北極やインドを航海したのちに18歳で少尉となる。アメリカ独立戦争の際にもフリゲート艦に乗り込み、西インド諸島に派遣された。フランス革命が勃発すると、フッド提督の指揮する地中海艦隊の戦列艦アガメムノン号の艦長となる。1793年ツーロンの戦いにも参加した。コルシカ遠征ではバスティアの要塞を攻略、勢いに乗ってカルヴィー要塞を攻撃するが、砲弾の破片が目に命中、右目の視力を失ってしまった。1796年にキャプテン号の船長となり、同年6月のサン・ヴィセンテ沖の海戦ではネルソンの機転によってスペイン艦隊を撃破した。この功績でネルソンは少将となる。7月に小艦隊を率いてカナリア諸島のスペイン軍の攻撃に向かったが、スペイン軍の反撃を受けて撃退されてしまった。ネルソンは右手を失うこととなった。それでもジョージ3世は彼の戦功に報いてバス勲位を叙爵する。1798年には地中海艦隊を指揮してナポレオンのエジプト遠征軍を監視した。しかし、フランス艦隊司令官のブリューイ提督はネルソンの監視を巧みに潜り抜けて、遠征軍をエジプトに輸送することに成功する。これに驚きながらも、ナイル河口のアブキール湾でフランス艦隊を発見し、これを撃破、ナポレオンをエジプトに閉じ込めることに成功した。1801年にはコペンハーゲン沖の海戦でデンマーク艦隊を撃破する。その後、アミアンの和約でフランスとの和平がなされても地中海艦隊司令官の座に居座り続けてフランス艦隊の監視を行った。1805年にナポレオンはイギリス侵略を明らかにしてビルヌーブ提督の率いるフランス艦隊をドーバー海峡に向かわせる。ネルソンはトラファルガー沖でフランス艦隊を迎え撃ち、一艦も失うことなく勝利を収めた。その代償としてネルソン自身は戦死することとなった。この敗戦によってナポレオンのイギリス上陸の夢は完全に潰えることとなる。
アントワーヌ・ド・フェリポー Antoine de Phelypeaux (1768〜99)
パリ士官学校時代でのナポレオンの同級生。1785年に士官学校を卒業。卒業試験では58人中41位という成績で、ナポレオンのひとつ上で卒業した。フランス革命が起こった1789年に大尉に昇進する。しかし貴族であったために1791年に亡命し、1795年までライン方面でコンデ公(ルイ16世の従兄弟)の亡命貴族の軍隊に参加した。1796年に王党派の蜂起の支援のためフランスにもどるが、逮捕されてしまう。監獄でイギリス人捕虜であったシドニー・スミスと知り合い、翌1797年には共に脱走した。その後はイギリス軍で活動することとなる。1799年エジプト遠征中であったナポレオンを迎え撃つためにスミスとともにシリアのアッカに派遣された。そこでナポレオン率いるフランス軍を迎え撃って大打撃を与える。しかし、自身は疲労のため病気となり死去した。
トーマス・ピクトン Thomas Picton(1758〜1815)
ウェールズのペンブロークシャーのPoystonで生まれる。1771年に軍隊にはいった。アメリカ独立戦争を戦い、1801年に西インド諸島のトリニダードの総督となった。1810年にウェリントンからの要請で半島戦争に赴く。ブサーコやフェンテス・デ・オノロ、ヴィトリアの戦いなどに師団を率いて戦った。1815年にナポレオンがベルギーに出兵するとウェリントンに従う。カトルブラで負傷するが、ワーテルローの戦いに参加。戦闘中に大砲の直撃を受けて戦死した。
ウィリアム・ポンゾビー William Ponsonby (1772〜1815)
アイルランド出身の軍人。1796〜98年までアイルランドの下院議員を務めた。1811年10月に半島戦争に参加。マーチャント将軍の旅団において第5重竜騎兵連隊を指揮する。1812年にサラマンカの戦いでマーチャント将軍が戦死すると、騎兵旅団の指揮権を引きついだ。そしてブルゴスの戦いやヴィトリアの戦いなど多くの戦闘の勝利に貢献する。1815年のワーテルローの戦いでは勇猛でなるスコットランド人重騎兵連隊(スコッツ・グレイ)を指揮した。最初の突撃でデルロン将軍の主力部隊を撃破し、フランス軍砲兵陣地まで進出するが、フランス軍騎兵の反撃を受けて壊滅してしまった。敗走中にポーランド人槍騎兵の追撃を受けて、槍で突かれて戦死した。
ウィリアム・シドニー・スミス William Sidney Smith (1764〜1840)
ウェストミンスターの海軍の一族に生まれた。13歳で海軍にはいりアメリカ独立戦争に参加する。1790年にスウェーデン海軍に移籍し、スヴェンスクスンドの海戦でロシア艦隊と戦って顕著な働きをしめした。1793年にフランス革命政府に対してイギリスが宣戦布告をすると、スミスはフッド提督の指揮下に入り、ツーロン港を攻撃して大戦果をあげる。そしてフリゲート艦ダイヤモンド号の艦長となり、多くのフランス艦を捕獲するが1796年にフランス艦隊に拿捕されてしまった。彼は2年間の捕虜生活を送ったが、王党派の手助けにより脱獄してイギリスに帰国した(この捕虜生活の時にフェリポーと知り合い、ともに脱出)。1798年にナポレオンがエジプト遠征をおこなったときは、オスマン帝国を対仏同盟軍に引き込むためにコンスタンチノープルに派遣され、99年1月に同盟を結ぶことに成功する。そしてフェリポーとともにアッカに上陸して、そこでナポレオンと戦った。ナポレオンがエジプトを去ってからはクレベール将軍やムヌー将軍らと交渉して1801年にフランス軍をエジプトから撤退させることに成功した。ナポレオンが皇帝になってからもスミスは地中海を中心にフランス軍と戦い、1810年海軍中将に昇進し、1812年に地中海艦隊の副司令官に任命された。1815年にはワーテルローの戦いに参加してフランス軍を撃破し、ウェリントン将軍とともにパリに入城する。
よくネルソンとウェリントンがナポレオンのライバルとして引き出されるが、実際はスミスのほうがナポレオンと深くかかわっている。ネルソンはナポレオンと直接戦ったことがないうえに、ウェリントンもワーテルローのただ一度しかナポレオンと直接剣を交えていない。
アーサー・ウェズリー ウェリントン公爵
Arthur Wellesley Duke of Wellington (1769〜1852)
ナポレオンが生まれた年とおなじ1769年にアイルランドで生まれた。1781年にベルギーに移り住み、1786年にフランスのピニロール陸軍士官学校に入学する。そして翌年にイギリス軍の連隊に配属された。1796年にインドのベンガルへ派遣され、そこで現地の豪族連合であるマラータ同盟と戦いながら実戦の経験を積んだ。マラータ同盟軍を撃破したウェリントンはこの功績で少将に昇進してナイトの称号を受ける。1805年に帰国した彼は束の間の休息を味わった後、デンマークで戦い、1809年にナポレオンが支配するスペインへと派遣された。ポルトの戦いでスルト元帥率いるフランス軍を撃退し、タラヴェーラ・ラ・レイナではナポレオンの実兄のジョゼフ国王自ら率いるフランスの大軍を撃破した。その後もスペインで現地の反仏ゲリラと協力しながら激戦を繰り広げた。1812年にはマドリードを占領し、翌13年にフランス軍の最後の拠点であるビトリアでフランス軍を散々に打ち破った。そしてフランス本土に攻め込んだ。1814年にナポレオンが退位すると同時に、イギリスに帰国、イギリス国民から熱烈な歓迎を受けた。そして、これまでの功績を評価され公爵に任命された。1815年にナポレオンがふたたびフランスに舞い戻るとイギリス軍の総司令官としてベルギーに赴いた。そこでプロイセン軍とともにワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破り、パリを占領した。
ワーテルローの戦いののち、1818年に政治家としての活動を始める。1827年には首相となり、カトリック教徒解放法を成立させる。天才的軍人は天才的政治家にはなれず、1830年に辞任。1852年に83年の栄光に満ちた生涯を閉じた。
※画像の左側はイメージです
イブラヒム・ベイ Ibrahim Bey (1735〜1817) ※オスマン帝国時代のエジプト知事
グルジアのトビリシ近郊の寒村出身。奴隷としてエジプトに売られ、そこの知事に仕えた。主人が死ぬと、ムラードとともにエジプトの支配権を引き継いで強大な勢力をもった。1798〜1801年にかけてフランスの侵略がはじまると、マムルークたちを率いてフランス軍と戦う。しかし、ピラミッドの戦いやタボル山での戦いでナポレオンに敗れ、ヘリオポリスの戦いでもクレベール将軍に敗れた。1811年に改革派のムハンマド・アリーのマムルーク粛清の難を逃れ、1817年に死去した。
ムラード・ベイ Murad Bey (1750〜1801) ※オスマン帝国時代のエジプト知事
オスマン帝国領エジプトを支配していたマムルーク族の長。マムルークとは奴隷出身の軍人で構成された戦闘集団をいう。1798年にナポレオンのエジプト遠征軍をカイロのエムバベで迎え撃つが(ピラミッドの戦い)、敗れて逃走した。そして上エジプトのアスワンまで逃走して抗戦するが、追撃してきたドゼー将軍に敗れた。ナポレオンがエジプトを去ってからは、後任のクレベール将軍と和平を結んだ。そのうえ、孤立したフランス軍への援軍まで申し出る。しかし、トルコ・イギリス連合軍と対決する前にペストにかかって死亡した。彼の息子が跡を継ぐが、イギリス軍側に寝返ってしまった。
※Beyとは名前ではなく、知事という意味。
オーストリア帝国 ハプスブルク朝
ヨーゼフ・アルヴィンチ(ダルヴィンチ) Josef Alvintzy (1735-1810)
トランシルヴァニア出身の司令官。七年戦争に従軍した経験を持つ。バイエルン継承戦争ではプロイセン軍の将軍を捕虜にするという戦功をたてる。のちにネーデルランドに配属となったが、フランス革命が起こったので師団を率いて戦い、1793年のネールヴィンデンでのオーストリア軍の勝利に貢献する。1795年には宮廷戦争会議(Hofkriegsrat)のメンバーにも選ばれた。1796年にマントヴァ救援軍の総司令官に抜擢されたが、アルコレの戦いで若きナポレオンに敗北。リヴォリの戦いで再びナポレオンと戦うが大敗を喫した。イタリアでの戦争後はハンガリー軍司令官となった。
※画像はイメージです
アダム・バヤリッヒ Adam Bajalich Freiherr von Bajahaza (1734〜1800)
ハンガリーのセゲディン出身。16歳で軍隊にはいった。バイエルン継承戦争で戦功をたてて大佐となった。トルコ戦線で勤務をしていたが、1790年に男爵の地位を得る。1793年にライン方面に配属となり、ウェルムザー将軍の指揮下で旅団を指揮した。1796年にウェルムザーとともにナポレオンと戦うが敗れた。その後、アルヴィンチとともにマントヴァの救出作戦を行うが、ここでも破れてしまった。1797年退役をする。
ヨハン・ピエール・ボーリュー Jean Pierre Beaulieu(1725〜1819)
ベルギーのジョドアーニュ出身(ワーテルローの近く)。1743年に軍隊に入り、1763年に大佐に昇進する。フランス革命戦争の時にはベルギーでデュムーリエ将軍やジュールダン将軍らと戦った。1796年3月にオーストリアのイタリア方面軍司令官となるが、、ナポレオンの攻勢の前に敗北して更迭される。その年の5月25日に彼は軍を退役して領地のリンツに隠遁した。芸術作品が好きで数多くの美術品を集めていたが、1805年と09年にオーストリアに侵攻したフランス軍に略奪されてしまった。かわいそう(T。T)
ハインリッヒ・ヨーゼフ・ヨハネス・グラフ・フォン・ベレガルド(1756〜1845)
Heinrich Joseph Johannes Graf von Bellegarde
ザクセンの政治家の家庭に生まれた。20歳でザクセン軍に入り、1781年にオーストリア軍に入った。トルコとの戦争で名をあげる。1792年4月にプロイセン軍のホーエンローエーの指揮下で革命干渉戦争に参加した。1796年にはカール大公の指揮下に入ってドイツで戦い、ついで本国に侵入しつつあるナポレオンと戦った。そしてレオーベン条約やカンポ・フォルミオ条約などの交渉にスタッフとして参加した。その後、1799年春にチロルに侵攻し、5月には1万5000の兵を率いてロシアのスヴォーロフ将軍の指揮下に入って、ノヴィの戦いに参加する。1800年マレンゴの戦い参加して敗北を味わうが、メラス将軍がアレクサンドリアで降伏したために、残存したオーストリア軍を代わりに指揮した。1805年はベネチア総督として活動し、翌年にポーランドのガリチア総督となる。1809年に再び現役にもどり、エスリンクの戦いやワグラムの戦いに参加。1813年にはイタリアでオーストリア軍を指揮してミュラー元帥の寝返りを交渉した。ナポレオンが退位してからは宮廷戦争会議(Hofkriegsrat)のスタッフとなったが、1825年に失明のため退役をした。
※画像はイメージです
ポール・フライヘル・フォン・ダヴィドヴィッチ Paul Freiherr von Davidovich (1737〜1814)
ハンガリーのブダペスト出身。1757年に軍に入り、七年戦争に参加した。バイエルン継承戦争にも参加し、シュレジェン地方での戦闘で名をあげる。革命前はトルコと戦っていたが、革命干渉戦争が始まるとネーデルランドに派遣された。1796年ウェルムザーに従ってマントヴァ要塞救出戦に参加する。しかしヴェルムザーが要塞に逃げ込んでしまうと、2万の兵を率いてアルヴィンチとともに南下を行った。デュボワ将軍の軍を撃破するが、援軍として現れたナポレオンに敗れてしまった。1805年にはカール大公の指揮下で戦う。1809年にハンガリーにもどりコマールノの知事となった。
ヨハン大公 Archduke John (1782〜1859)
フランツ1世とカール大公の弟。兄カールと違い軍事的才能には恵まれず、1800年のホーエンリンデンの戦いを指揮するがモロー将軍に大敗した。1805年にも一軍を指揮するがネイ元帥に本隊との合流を阻止されてしまう。そして1809年にイタリアでウジューヌ・ド・ボアルネと戦うが、いったん勝利するものの結果的に引き分けに終わってしまった。ワグラムの戦いののち、カール大公に軍事的失敗を叱責され二人は仲違いとなってしまった。軍事では凡才であったが、統治者としては優れた能力を発揮する。オーストリアのシュタイリア州を統治し、現地の郵便局員の娘と結婚する。「アルプス王」と呼ばれて民衆からの尊敬を集めた。フランツ帝の死後は政治活動から身を引くが、帝国の重鎮として大きな影響力を持った。
カール・フォン・ハプスブルク (カール大公) Karl von Habsburg (1771〜1847)
フランツ1世の弟。神聖ローマ皇帝レオポルト2世の息子としてイタリアのフィレンツェで生まれた。ウィーンで育てられ、のちにネーデルランドに移り住む。そこで軍隊にはいった。最初の軍歴はジュマップの戦いで、旅団を指揮した。そして1793年のアルデンホーフェンやネールヴィンデンの戦いで戦功をたて、翌年のフリューラスの戦闘にも参加する。1795年にライン方面軍総司令官となりジュールダン将軍やモロー将軍を次々に破ってヨーロッパにその名をとどろかせた。しかし1797年、オーストリアに侵入しつつあるナポレオンを迎え撃つためにイタリアに派遣されるが、阻止することができなかった。1805年の戦争では10万の大軍を率いてイタリアからフランスに侵攻しようとしたが、マッセナ元帥に阻止されてしまう。1809年にはオーストリア軍総司令官としてナポレオンに戦いを挑み、アルペルン、エスリンクに進出してきたフランス軍を撃破し、猛将ランヌ元帥を死に追いやった。しかしワグラムの戦いで大敗してしまう。ワグラムの敗戦ののちはナポレオンを破った英雄として国民から絶大な人気を得たが、フランツ帝や重臣たちから警戒され、軍司令官を解任されてしまった。引き際をわきまえていた彼は二度と軍務にもどることなく、著作活動に専念した。
余談だが、病弱で身長が150センチ程度しかなかったという。
カール・マック Karl Mack (1752〜1828)
バイエルン出身。18歳の時に叔父が指揮する連隊に入った。バイエルン継承戦争やトルコとの戦争でキャリアを重ねて戦功をたてる。とくにトルコとの戦争ではベオグラードで大戦果をあげ、その名声はオーストリア皇帝の耳にも入ったという。フランス革命戦争の際には、有能な戦略家としてオーストリア軍の参謀長を務めた。1805年の戦争ではオーストリア軍の総司令官としてバイエルンに進攻した。しかし、ウルムでナポレオンに包囲されてしまい、脱出を試みたがエルヒンゲンでネイ元帥に敗れてしまった。そしてウルムで降伏する。ウルムの敗戦の責任をとって彼はすべての身分をはく奪されて死刑判決を受けた。のちに減刑され終身刑となり、さらにフランツ帝の恩赦で4年で釈放された。
ウルムで完全にナポレオンに屈したことから無能の将軍と見られがちだが、オーストリアの誇る最高の司令官の一人。エルヒンゲンの突破戦は戦略的にも的確な判断であり、戦闘では勇敢であったという。とはいえ尊大で、ヤな野郎だったらしい。
ミハイル・メラス Michael Melas(1729〜1806)
ルーマニアのトランシルヴァニア出身で17歳で軍隊に入隊した。ダウン将軍( 1705〜1766 18世紀における最高の将軍の一人。フリードリヒ大王を散々悩ませた名将)の目にとまって同将軍の副官となる。七年戦争にも参加して戦功をたてた。革命干渉戦争では旅団を指揮してドイツで戦う。1796年にはボーリュー将軍の指揮下で、またウェルムザー将軍とともにナポレオンと戦った。しかし、ヴェルムザーが敗れると、ともにマントヴァ要塞に逃げ込んだ。1800年に10万の大軍を率いてイタリア遠征を行った。各地でフランス軍を圧倒し、マッセナ将軍をジェノヴァで降伏させるが、マレンゴの戦いでナポレオンに敗れた。しかし、ナポレオンは彼に敬意を表してエジプト遠征で手に入れたサーベルを彼に送ったという。メラスもそれを喜んで受け取った。1803年に退役をする。たたき上げの軍人で特別優秀な司令官ではなかったとされている。しかし、マレンゴでナポレオンを追い詰めたことは彼の戦術眼が優れていたことを証明している。
ヨハン・ヨーゼフ・ファウスト・フォン・リヒテンシュタイン (1760〜1836)
Johann Joseph Furst von und zu Liechtenstein
ウィーン出身。1782年に軍隊に入り、1788年のトルコ軍との戦争で、優秀な騎兵司令官として名をあげた。1792年に革命戦争に竜騎兵を率いてプロイセンのホーエンローエー将軍の指揮下で戦う。その後はヨハン大公の指揮下にはいるが、ホーエンリンデンの戦いで敗北を経験した。1805年アウステルリッツの戦いにも参加するが、敗戦後は皇帝に代わってナポレオンと交渉し、プレスブルクの和約を結んだ。1806年に彼の領地がナポレオンによってライン同盟に組み込まれてしまったが、彼はフランス軍に参加することをよしとせず、3歳の息子に位を譲ってオーストリア軍に身を投じた。1809年にフランスの侵略軍と戦うが敗れてしまった。またもやウィーン条約を皇帝の名代として結んだ。1815年に軍を退役し、ウィーンで死去。
ペーター・カール・フライヘル・フォン・オット Peter Karl Freiherr von Ott (1738〜1809)
ハンガリーのエステルゴム出身。士官学校で学んだ後、18歳で少尉となった。七年戦争やバイエルン継承戦争に参加する。革命干渉戦争ではおもにネーデルランドで戦ったが、1796年にウェルムザー将軍の指揮下でイタリア遠征に参加した。ガスタノヴィッチ軍の旅団を指揮して、サロの戦闘でフランス軍を撃破するなど戦功をたて、さらに1799年のノヴィの戦いにも参加する。1800年にはメラス将軍の指揮下でイタリア遠征に参加。マッセナ将軍率いるフランス軍をジェノヴァで降伏させる。マレンゴの戦いでは前衛部隊を務めるが、追撃戦に移った際に、フランス軍の反撃を受けて大敗してしまった。しかし彼は老練な将軍らしく軍をまとめあげて退却をすることに成功した。1801年には内地勤務に移り、ブダペストで死去した。
ヨハン・マルケーゼ・プロベラ Johann Marchese Provera (17??〜1804)
1794年からイタリア方面で戦っていた。1796年にナポレオン率いるフランス軍とミレシモで戦うが、敗れて捕虜となってしまった。すぐに捕虜交換で釈放され、そのままアルヴィンチの指揮下に入ってナポレオンと戦った。バッサーノの戦いでのオーストリア軍の勝利に貢献するが、アルコレの戦いでマッセナと戦って大損害を受けてしまう。1797年のリヴィリの戦いのときには彼は9000の別動隊を率いてマントヴァに迫るが、リヴォリから駆けつけてきたフランス軍に包囲されて降伏した。同年4月に軍をやめて1804年にベニスで死去する。
ペーター・ガスタノヴィッチ Peter Quasdanovich (1738〜1802)
クロアチアのSichelberg出身で、1752年に軍隊に入る。1778年のバイエルン継承戦争ではフリードリヒ大王の指揮する部隊の攻撃を受けたが、頑強に抵抗してこれを退却させた。そのほかにも多くの戦功をたたててマリア・テレジアから騎士十字勲章をもらう。1788年のトルコとの戦争では司令官として戦う。1796年にヴェルムザーとともにマントヴァ救出作戦をおこなうが、ロナトの戦いでマッセナ将軍に敗北する。終始、ヴェルムザーの足を引っ張ってしまった。1797年2月に軍を退役した。
カール・シュヴァルツェンベルク Karl Schwarzenberg (1771〜1820)
オーストリアの軍人・外交官。ウィーン出身。16歳で軍隊に入隊した。初陣は1787年のトルコとの戦争で、1813年にフランス元帥となるポニャトフスキーとともに参加して彼と親交を持った。革命干渉戦争ではベルギーで戦って戦功をたてる。1805年にはマック元帥の指揮下でウルムの戦いに参加した。ウルム敗戦ののちはフランス軍の包囲を突破し、オーストリア皇帝と合流して、アウステルリッツの戦いに参加した。1808年に大使としてロシアに派遣され、1809年には駐フランス大使としてマリー・ルイーズとの結婚を斡旋した。またロシア遠征の際には、オーストリア軍を率いてナポレオン軍に参加する。ロシア遠征ののちにナポレオンとの関係が気まずくなると、1813年に彼はすかさずパリからボヘミアに向かい、オーストリア軍を率いてナポレオンと戦った。ドレスデンでは敗れたが、ライプチヒでナポレオンに勝利する。その後はオーストリア軍の総司令官としてナポレオンを退位に追い込んだ。
ジョゼフ・フィリップ・フォン・ブカソビッチ Josef Philipp von Vukassovich(1755〜1809)
セルビア出身。1775年にオーストリア軍に入隊し、トルコとの戦争に従軍する。1794年に連隊長に昇進し、イタリアに派遣される。1796年には旅団長としてナポレオン率いるフランス軍と戦った。デゴの戦いでは、町を略奪しているフランス軍を奇襲して大損害を与える。ロディの戦いにも参加。その後はマントヴァ要塞で籠城をした。カスティリオーネの戦闘のためフランス軍が一時的にマントヴァの包囲を解くと、2000の兵とともに要塞を脱出し、ウェルムザー将軍やアルヴィンチ将軍のマントヴァ救援軍に加わる。1799年にイタリア遠征に参加。セリュリエ将軍の3000の部隊を降伏さている。1805年にはカール大公のもとで師団を指揮した。1809年にエックミュールやアスペルン・エスリンクの戦いに参加するが、ワグラムの戦いで負傷して、その傷がもとで死去した。
※画像はイメージです
Franz von Weyrother フランツ・フォン・ワイローテル(1755〜1806)
ウィーン出身。1796年のイタリアでアルヴィンチの指揮下でナポレオンと戦った経験がある。リヴォリの戦いのオーストリアの作戦も彼がたてた。1800年のホーエンリンデンの戦いではヨハン大公の参謀長を務めた。アウステルリッツの戦いでは主席参謀長としてフランス軍撃破のための作戦をたてるが、ナポレオンの戦術の前に敗れ去った。翌年失意のうちにウィーンで死去。
ダゴベルト・ヴェルムザー Dagobert Wurmser (1724〜1797)
ストラスブール出身。フランス革命が突発したときはドイツで戦っていたが、ボーリューの後任としてイタリア方面軍を担当する。フランス軍によって包囲されたマントヴァ要塞の救出作戦を行うが、カスティリオーネの戦闘でナポレオンに敗れてしまった。 そして自身も配下の軍団とともにマントヴァに逃げ込んでしまう。アルヴィンチ率いる援軍も敗北して1797年2月に降伏した。武装したままの開城を許されたが、気落ちしてしまったヴェルムザーはその年のうちに死去した。
アントン・フライヘル・フォン・ツアッハ Anton Freiherr von Zach (1747〜1826)
ブダペストで医者の息子として生まれる。ウィーンのアカデミーで学んだ後、1765年に軍隊に入隊した。フランス革命が起こったときにはオスマン帝国との戦争に参加していた。1796年にボーリューの指名でイタリア方面軍に配属された。ボーリュウはナポレオンに敗れるが、後任のウェルムザーの指揮下で再びナポレオンと戦う。1799年はロシアのスヴォロフ将軍の指揮下でノヴィの戦いに参加した。1800年にメラス将軍の指揮下でイタリア遠征に参加した。メラス将軍はマレンゴでナポレオンを撃破するが、フランス軍の追撃戦の指揮を彼に任せてアレクサンドリアに帰還してしまった。彼は巨大な縦隊を組んで追撃を行ったが、逆にドゼー将軍らフランス軍の逆襲を受けて捕虜となってしまう。1805年の戦争ではカール大公のもとで戦い、1825年に軍を退役した。
ロシア帝国 ロマノフ朝
ピョートル・バグラチオン Peter Bagration (1765〜1812)
コーカサス地方のグルジアの名門貴族出身。1782年に軍隊に入りコーカサスで勤務した。勇猛な司令官で、その勇敢さはロシアの名将スヴォロフ将軍にも気に入られ、スイスやイタリアの戦線で彼に従った。アウステルリッツの戦いでは連合軍右翼を受け持ってランヌ元帥と激戦を繰り広げ、1807年のアイラウ、フリートラントの戦いにも参加した。1812年のボロディノの戦いでは左翼を担当したが脚を負傷する。その傷がもとで感染症を起こして9月24日に死去した。
ロマン・ イヴァノッチ・バグラチオン Roman Ivanovich Bagration(1778〜1834)
ピョートル・バグラチオンの弟。13歳で軍隊にはいる。1796年にペルシャ遠征に参加した。1805年と1807年のフランスとの戦争にも参加している。1812年には連隊長としてフランス軍とたたかい、1813年に旅団長となった。バウツェンやドレスデンの戦いに参加。ダヴー元帥が籠城したハンブルクの包囲戦にも参加している。戦後はコーカサスに派遣されトルコ軍やペルシャ軍と戦った。
ミハイル・バルクライ・ド・トーリー Mikhail Barclay de Tolly (1761〜1818)
スコットランド貴族の家柄。1767年に軍隊に入り、露土戦争(1787〜92)にも参加して軍歴を重ねる。1794年にはポーランドでおこったコシューシコの反乱の鎮圧にも参加した。ナポレオン戦争ではロシアとフランスとの戦争にほぼすべて参加し、1812年にはロシアの防衛戦争を指導して焦土戦術を展開するが、軍とアレクサンドル帝の支持が取り付けず更迭された。しかし、結果的にそれがフランス軍を壊滅させることとなった。1813年のドイツの戦争にも参加し、1814年にはロシア軍を率いてパリを占領した。
レヴィン・アウグスト・フォン・ベニグゼン Levin Bennigsen (1745〜1826)
ハノーヴァー出身。七年戦争に従軍した経験を持つ。1773年にロシア軍に入った。トルコ戦線で勤務して旅団長となり、1796年にはペルシャ遠征で活躍する。1798年にパーヴェル1世によって解任されるが、彼が暗殺されると息子のアレクアンドル1世によって再び将軍となった。1807年のフランスとの戦争では総司令官として戦い、プルツスクの戦いやアイラウの戦いでフランス軍に打撃を与え、この遠征での働きぶりはロシア皇帝に称賛された。フリートラントの戦いではナポレオンに惨敗し、その責任をとって一線から身を引くが、1812年にフランスとの戦争がはじまると、再び呼び戻された。1813年のドイツでの戦いに従軍してバウツェンやリッツェンの戦闘に参加。その後はロシア軍の総司令官となり、ライプチヒの戦いに参加した。ライプチヒの戦闘後は、ハンブルクでダヴー元帥の軍団を包囲し、1814年に降伏させる。
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブックスヘウデン Friedrich Wilhelm von Buxhoevden (1750〜1811)
エストニアのドイツ貴族の家系。1805年のアウステルリッツの戦いで連合軍の左翼で4万の軍勢を指揮したが、ダヴー元帥とスルト元帥に敗れた。その後も現役を続け、1808年にロシアとスウェーデンとの戦争に参加している。
ミハイル・クトゥーゾフ Mikhail Golenishchev Kutousov (1745〜1813)
サンクトペテルブルク出身。12歳のころに士官学校にはいり、卒業後は少佐としてトルコとの戦争に参加した。1774年にクリミアでトルコ軍と戦闘中に右目を失う。1776年にロシアの名将スヴォーロフ将軍のもとで勤務した。1784年に少将となり、87年にはクリミアの総督としてトルコ軍と戦った。1793年から1801年にかけてはトルコ大使やサンクトベテルブルクの総督などの役職を歴任していたが、アレクサンドル帝が皇帝に即位すると遠ざけられてしまう。1805年にフランスとの戦争を開始するとドイツ遠征軍司令官として召還された。アウステルリッツの戦いでは総司令官を務めたが、慎重派のクトゥーゾフに対し、主戦派のアレクサンドル帝やオーストリアのワイローテル将軍に作戦をめちゃくちゃにされて敗北する。1806年よりトルコ戦線に左遷され不遇であった。1812年ナポレオンがロシアに侵攻してきた際に、戦闘を回避するバルクライに代わってふたたび総司令官に任命される。ボロディノの戦いで敗北し、首都モスクワも放棄して退却したが、彼は陸軍組織の維持を優先する。そして疲弊しきっているフランス軍に激しい追撃を仕掛けてナポレオンをロシアから撃退した。1813年のドイツ戦争に従軍したが、途中で陣没する。
アレクサンドル・スヴォーロフ Alexander Vasilyevich Suvorov(1729〜1800)
モスクワ出身。病弱であったが、語学や軍事などの学問で身を修め、17歳で軍隊にはいた。フィンランド戦争(1741〜43)や七年戦争(1756〜1763)に従軍する。
1768年のポーランド遠征で大戦果をあげ、露土戦争(1768〜1774)でもトルコ軍の大軍を撃破した。プガチョフの反乱(1774〜75)も首謀者のコサックの首長のプガチョフをとらえて鎮圧している。さらには第2次露土戦争(1787〜92)でオーストリア軍と連合して勝利し、ヨーゼフ2世から伯爵の位を受けた。1794年のポーランドでのコシューシコの反乱も鎮圧した。1798年にロシアが対仏大同盟に加わったため、1799年にイタリア遠征軍の総司令官になった。そしてカッサーノ・ダッダ、トレビア河の戦いなど一連の戦闘に勝利し、ノヴィの戦いではジュベール将軍を敗死させた。スイスではマッセナ将軍率いるフランス軍とオーストリア軍が交戦していたが、北イタリアでの優位が確定したためにオーストリアの援軍としてスイスに侵攻する。しかし、オーストリア軍がマッセナ将軍に敗れたために、退却せざる得なくなった。1800年にロシアに帰国して、そのまま死去した。
※生涯不敗の将軍であったが、奇行がすごかったらしい。R/Dさんのサイトでエキセントリック爺さんとして紹介されている。
アレクサンドル・イヴヴァノッチ・オスターマン・トルストイ Alexander Ivanovich Ostermann-Tolstoy(1772〜1857)
ロシアの名門貴族トルストイ家出身。1798年に旅団長となり、1805年に師団長に昇進。同年にオーストリアでフランスと戦い、1807年のポーランド遠征ではプルツスクの戦闘やアイラウの戦いで勇戦した。1812年にボロディの戦いに参加するが、激しい戦闘で精神に異常をきたしてしまった。それでも、1813年のドイツ遠征にも参加し、バウツェンの戦いで負傷するが、戦場からは離れなかった。のちクルムの戦闘でヴァンダム将軍を降伏させる。その代償として負傷して左腕を失った。
※文豪のレフ・トルストイと同じ一族。
ピョートル・ヴィトゲンシュタイン Ludwig Adolph Peter Furst zu Sayn-Wittgenstein(1769 〜1843)
プロイセンの貴族出身。1805年にアウステルリッツの戦いに参加している。1807年にポーランドに派遣され、フリートラントの戦いにも加わっている。1812年のフランスとの戦争では、2度のポロツクの戦闘で、ウディノ元帥やサン・シール元帥ら率いるフランス軍の攻撃から、サンクトぺテルブルクの防衛した。1813年に病死したクトゥーゾフ将軍に変わりロシア軍の総司令官となり、バウツェンやリッツェンの戦闘に参加する。1814年のフランス遠征にも加わるが負傷した。1823年に元帥となり、1828年に軍を退役。
プロイセン王国 ホーエンツォレルン朝
カール・ヴィルヘルム・フェルディナンド・ブラウンシュヴァイク
Karl Wilhelm Ferdinand Braunshweig (1735〜1806)
二ーダ・ザクセンのヴォルフェンビュッテルの王族出身。イギリスのジョージ3世の妹と結婚した。初陣は七年戦争で、18世紀で最高の将軍と誉れ高かった。フランス革命戦争ではプロイセン軍の総指揮を執った。1792年7月25日にコンデ公が作成した「フランス王家に暴力をふるう者はしかるべき処置をとる」というブラウンシュヴァイク宣言を発表するが、これが8月10日のチュイルリー宮襲撃事件の間接的な引き金となってしまう。連戦連勝でフランスに侵攻するが、ヴァルミーの戦いでケレルマン将軍(父)の共和国軍に敗れた。1806年のアウエルシュタットの戦いでは本隊を率いるが、ダヴー元帥に撃破された。同時に重傷を負い、その傷がもとで死去する。
ゲープハルト・フォン・ブリュッヒャー Gebhard von Blucher (1742〜1819)
軍人の家系に生まれ七年戦争の時にスウェーデン軍として参加していたが、1760年にプロイセン軍の捕虜となり、そしてそのままプロイセン軍に入隊した。1806年の戦争ではフランスの大軍を相手にリューベックで孤軍奮闘する。最終的に降伏するが、弾薬の欠乏のためで、戦意は衰えていなかったという。粗野で凶暴であったが、戦争における決断力と勇気をシャルンホルストは気に入り、1813年にプロイセン軍の総司令官に任命される。フランス軍相手に縦横無尽の活躍をした。ワーテルローの戦いではグルーシー元帥の追撃を振り切り、フランス軍を右側面から襲って連合軍を勝利に導いた。
ヘルマン・フォン・ボイエン Hermann von Boyen (1771〜1848)
ナポレオン戦争後期のプロイセンの陸軍大臣。シャルンホルストに共鳴して1814年に国民皆兵法(Landwehr)を成立させ、労働者や農民を保護して国民を中心とした陸軍の編成を主張した。しかしユンカー(プロイセンの貴族の呼称)や国王の反対によって失敗する。
フリードリッヒ・フォン・ビューロー Friederich von Bulow (1755〜1816)
13歳で軍隊に入る。1772年に将校となりフランス革命戦争にも従軍した。1806年のイエナの戦いにも参戦するが、プロイセン軍の大敗を見てその後のプロイセン軍の改革の指導者の一人となる。1813年の諸国民戦争ではグロスベーレンやデネヴィッツの戦闘でフランス軍に勝利した。ワーテルローの戦いではプロイセン軍の前衛として真っ先に駆け付け、勝利に貢献した。
カール・フォン・クラウゼヴィッツ Karl von Clausewitz (1780〜1831)
シャルンホルスト門下の一人。マグデブルクの下流貴族出身で12歳でプロイセン軍にはいった。イエナの戦いでフランス軍の捕虜となるが、釈放後はベルリンの士官学校で教鞭をふるう。1812年のロシア遠征ではロシア軍の参謀として活躍、戦後はプロイセン軍に復帰してワーテルローを戦った。31年にグナイゼナウとともにポーランドの反乱鎮圧にあたったが、コレラに感染して死去した。
彼はナポレオンの戦いを徹底的に研究して「戦争論」を書いた。この本は現在でも広く読まれている。
ルイ・フェルディナンド王子(1772〜1806) Friedrich Ludwig Christian
フリードリヒ大王の甥。ブラウンシュヴァイク公が総司令官を務める革命戦争に従軍している。1806年にプロイセンがフランスと開戦すると、プロイセン軍の前衛を率いた。しかし、ザールフェルトでランヌ元帥の軍団に敗れ、フランス第10軽騎兵隊の将校ギュインデットとの一騎打ちの末戦死する。
アウグスト・フォン・グナイゼナウ Augustus von Gneisenau (1760 〜1831)
シャルンホルスト門下の一人。ザクセンの貧乏貴族出身で、アメリカ独立戦争にイギリスの傭兵として参加した経験を持つ。イエナの戦いの活躍でシャルンホルストに認められ中佐に昇進する。シャルンホルストが戦死したのちは参謀長の地位を引き継いでプロイセンの戦争を主導した。1815年のワーテルローの戦いでも参謀長として連合軍を勝利に導く。1831年ポーランド反乱の征伐中にコレラにかかって死去。
カール・フォン・グロルマン Karl Von Grolman (1777〜1843)
ウェストファリアの貴族出身。シャロンホルストの門下。1809年にスペインでフランスと戦い、1813年に参謀将校となった。、ワーテルローの戦いではグナイゼナウを補佐する。のちにプロイセンの参謀組織を引き継ぐが、正式に参謀本部をなのった(Generalstab)。そして高名な「ドイツ参謀本部」を組織する。しかし1819年に社会改革に失敗したボイエンとともに辞職した。
フリードリッヒ・ホーエンローエー Friedrich Hohenloe (1746〜1818)
ヴェルテンブルクの貴族の生まれで、20歳のころより軍隊に入る。フランスへの革命干渉戦争に参加してカイゼルスラウテルンの戦いで戦功をたてた。イエナの戦いの際にはプロイセンの主力を率いるが、運悪くナポレオンの本隊と正面から対決してしまい大敗する。そしてブレンツラウに逃れるが、そこで降伏して捕虜となった。2年の捕虜生活ののちにプロイセンに戻って退役をした。
ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト Gerhard von Scharnhorst (1755 〜1813)
ハノーヴァーの貧農出身。ハノーヴァー軍の砲兵隊で昇進を重ね、ポルトガルやイギリスなどで戦争指導をおこなって名を挙げた。そして1801年にプロイセン軍に貴族将校として入隊する。イエナ、アウエルシュタットの敗戦後はプロイセン軍の軍制改革を行い、その再建に尽力した。1813年にプロイセン軍の参謀長としてドイツの戦争に参加したが、5月にリッツエンの戦いで負傷して、その傷がもとで6月に死去した。彼の創設した軍事組織はドイツ陸軍の中で引き継がれ、参謀本部としてモルトケやシュリーフェンなどの名将を輩出した。
ボギスラフ・フリードリッヒ・エマヌエル・フォン・タウエントツィーン Bogislav Friedrich Emanuel von Tauentzien(1760〜1824)
ポツダム生まれ。父親はフリードリヒ大王に仕えた将軍。1775年にプロイセン軍に入隊する。1801年に旅団長となった。1806年にフランスとの戦争がおこるとホーエンローエ公の指揮下に入った。イエナの戦いの前哨戦としてシュライツでベルナドット元帥の軍と戦うが、彼は戦況不利とみると早々に撤退して本隊と合流して、イエナの戦いに参加した。敗戦後、プロイセン陸軍は削減されるが、シャルンホルストらの軍制改革に同調する。1813年のドイツでの戦争では、グロスベーレンやデネヴィッツの戦い、ライプチヒの戦いに参加した。